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親戚から届いた結婚式の招待状
以前あるハーフ(父・日本人、母・在日朝鮮人)の親戚から結婚式の招待状が届いた。
筆者あての宛名・名字が通名(祖父、父が使っていた通名。筆者は生まれた時から民族名のみ)で書かれており、どういう状況なのかしばらく考えてしまった。今まで考えたことのないことが起こりショックを受けてしまった。
なぜ宛名を通名で送ってきたのか考えた
- 結婚相手に朝鮮のことを隠している
- または結婚式に来る人たちに朝鮮のことを知られたくない
- 通名使用者だと思っていた(筆者の本名は知っている)
- しかし本名でSNSを使っていて、直近にやりとりもしているので本名使用者だと知っているはず
- 親戚なので招待するが本音では来てほしくないから「メッセージ」を送った(こんなことまで勘ぐってしまった)
- 朝鮮人は筆者の兄弟のみ招待された
筆者はあまり人づきあいがよくなく、どのみち祝儀を送って欠席するつもりだったので無視して「通名」で返信しようかとも思ったが、些細なことかもしれないがそれをしたら自分ではなくなる気がしてできなかった。
なので本名で返信を送る前にSNSでメッセージを送ってみることにした。
「朝鮮の血はないこととして生きてきたわ」
宛名のことにはふれず事情を聞いてみた。結婚相手は朝鮮の血ことを知っているが親族は知らないとのこと。
朝鮮の血について聞いてみたが「気にしてない」とあいまいな答えであまり話したくない雰囲気だった。出自について人と話すのははじめてだという。
お互い子どもの時から知っていることもあり、「朝鮮の血を隠そう・消そうとしているのか」と込み入ったことも聞いてみた。彼は数年前に公務員に転職していたので「日本人」にこだわっていると思っていた(悪いことではない)。
親戚 「別に消そうとは思ってない」「気にしない」
筆者「何人になりたいのか」
親戚 「日本人だね。生まれた時からそうだし」
筆者「自分の中の朝鮮についてはどう考える」
親戚 「よくわからない」「気にしない」
筆者「日本人としてのアイデンティティ(存在意義)もないのか」
親戚 「あるよ」「それこそスポーツ観戦の時くらいかな」
筆者「そうか」「だが君の母は朝鮮人だろ。自分の中の朝鮮についてはなにも思うところはないのか」
親戚 「母のことを韓国人だと思ったこともないし、まわりも(たぶん)日本人しかいなかったし気にしてない」
親戚 「朝鮮の血はないこととして生きてきたわ」
筆者と対話すること自体嫌だったようだ。
「気にしない」には二種類ある
彼の言う「気にしない」は
- 父が日本人
- 母も日本人と変わらない
- まわりも日本人しかいなかった
- 公務員なので職場に外国人がいない
- そもそも頭に「朝鮮」がない
- よって「朝鮮」の要素が「ない」ので「気にしない」
彼の主張は、自分の頭には「朝鮮」が「ない」ので気にしない、ということになる。また「朝鮮」はネガティブなもの、という認識だと思われる。
対して筆者も自分が「朝鮮人」であることを「気にしない」
筆者が言う「気にしない」は
- 「朝鮮」にコンプレックスがない
- 「朝鮮人としての誇りとはなにか 」に答えられるから
- 「朝鮮人としてどう生きていけばいいのか」を実践しているから
- 客観的事実に基づいて真実を求めるから
- 究極的には人間は平等だと思っている(つまり人生はまわりの環境次第ではなく本人次第で変えられると思っている)
チュチェ思想を人生に適用し、主体的に生きることが筆者の「朝鮮人としてどう生きていけばいいのか」という自問に対する解答であり、客観的事実に基づいてチュチェを確立し、未来志向で発展していくことが「朝鮮人としての誇り」である。
つまり筆者は「朝鮮」「朝鮮人」はネガティブなものだと思っていないので「まわり」に知られても「気にしない」わけである。
この二種類の「気にしない」の違いは
前者は「隠す・消す」ことによって得られるもので、後者は開放した状態で得られるものである。
主観と客観的事実のギャップ
筆者はチュチェ思想の研究者で哲学者の端くれなので、今回取り上げた件についても哲学的に解答を出したいと思う。
客観的事実に基づき論理的に考察していこう。
まず彼が「日本人」を選択すること。
なにも問題ない。これは在日朝鮮人が帰化して日本人として生きることを「選択」する場合も同様である。
また選択は「意思」だが、自身の肉体つまり「血」はどうだろう。
「血」は意思で変えることはできない。なぜなら「血」は意思で決まるものではなく親から受け継ぐものだからだ。これは生物学的な事実であり、客観的事実だ。よって民族は血で決まる。
先にあげた彼のメッセージを引用する。
「母のことを韓国人だと思ったこともないし、まわりも(たぶん)日本人しかいなかったし気にしてない」
「朝鮮の血はないこととして生きてきたわ」
「母のことを韓国人だと思ったこともない」
とある。本当にそう思っているのだろうが、それは主観であって客観的事実ではない。
「朝鮮の血はないこととして生きてきたわ」
これも主観であり、実際には「ハーフ」である。意思はどうであれ客観的事実はないことにはならない。
つまり主観と客観的事実にギャップがあると現実とのゆがみが生じるということである。そしてそのゆがみをなくすためには、主観を客観的事実に合わせて発展させるか、不都合な真実を「隠ぺい」しながら生きるかの二択しかないわけだ。
「隠ぺい」しながらでも生きていくことはできる。しかしそれは自己否定しながら生きることになる。なぜなら先述したように「血」は親から受け継ぐものであって、「血」を否定するならばその人は存在しない(生まれていない)ことになるからだ。
主観を客観的事実に合わせる
それでは朝鮮の血が入ってたら日本人として生きてはダメなのか。
そうではない。ではどうすればいいのかといえば、
「客観的事実から出発して発展していけばいい」となる。
どういうことかといえば、
- まず客観的事実を認識する
- そして客観的事実を認めて受け入れる(自分の主観を客観的事実に合わせる)
- この場合、朝鮮と日本双方のことをよく知った上で自分の中で弁証法的に矛盾を解消し「日本人として生きていく」と結論を出せばいい
とても簡単なステップだ。
結論は同じでも矛盾を克服したか・してないかで、表面上は似ているが中身は全く別ものだ。
弁証法的に矛盾を解消するとはどういうことなのか
弁証法とはヘーゲルの弁証法である。
どういう風に考えるかというと、
「正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)の対立・矛盾を合わせて(ジンテーゼ)どちらも切り捨てず、より高いレベルへ止揚(アウフヘーベン)する」
という方法論である。
今回の件の場合
- 自分の中の日本の血
- 自分の中の朝鮮の血
- この二つの対立・矛盾をぶつけて(逃げずに自分の中で考える)
- どちらも切り捨てず、より高いレベルへ止揚する(矛盾を解消し、どう生きていくのか結論を出す)
上に「対立・矛盾」とあるが、「朝鮮」をネガティブなものととらえている場合は「対立・矛盾」だと考え、コンプレックスに感じたり、後ろ向きに思ってしまうかもしれない。
しかし筆者は「朝鮮」と「日本」は対立・矛盾するとは思わない。なぜなら「朝鮮」(チュチェ思想)のテーゼは反日や親日に依拠しているわけではなく、ただ朝鮮・民族の発展、つまり主体的に自己を高めることに依拠しているわけで、反日・親日はわれわれの手段でも目的でもないからだ。
難しい問題だが、客観的事実から出発し「対立・矛盾」がなければ、あるいは解消すれば現実のゆがみもない・なくなるわけだ。
突き詰めると「主体性」の問題になる
「対立・矛盾」の問題は、突き詰めると各自の「主体性」の問題ということできる。
どういうことかというと、コンプレックスのある、つまり抑圧された人間というのはつまり「主体性」を失った人間である。
チュチェ思想は抑圧された存在、つまり主体性を失った存在に機能する、あらゆる抑圧からの人間の解放・発展のための哲学である。
チュチェ思想では「自分の運命は、神的存在や各自のおかれた環境が決めるものではなく、自分自身で切り開いていくものである」と考えるため、あらゆる抑圧から自分を解放するためには「主体的」に生きなければならない、なる。
今回の件の場合、客観的事実から出発して主体性を高めれば、様々な矛盾を克服して発展していくことができるという解答になる。
結論、客観的事実を認めなくても生きていけるが、客観的事実から出発しなければ発展はできない。
数年前、ラジオである「ハーフ」タレント(イギリス・日本)のDJが
「若い頃はハーフが嫌だった」
「イギリスでは日本人と言われ、日本ではイギリス人と言われ、どちらでもいいからどちらか100%になりたかった」
と話していた。その話を聞いて、ハーフの人は「どちらか100%」(筆者も含む)の人より葛藤して生きているのだなと知った。
「マズローの欲求5段階説」の下から3段目、何らかの社会集団に所属し安心感を得たい「社会的欲求」。
今改めて考えるとハーフの人の葛藤は「社会的欲求」を満たすための闘いなのだと思う(もちろん人それぞれ違うだろうが)。
それでは在日朝鮮人の葛藤とはなんだろう。
われわれに関して考えると、われわれは自分たちの祖国があり、歴史があり、民族があり、言葉があり、(チュチェ)思想があり、実はとても恵まれているのだと気づくことができる。
日本でマイノリティーだと言っても海の向こうには同胞が7,500万人もいるのだ。
当ブログは「ハーフ」「クオーター」を含めたすべての同胞の主体性と発展を信じています。