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「チュチェ思想」と「金日成・金正日主義」
現在チュチェ思想は二種類ある。
一つは金日成主席の考えから生まれた、人間の発展哲学である「チュチェ(主体)思想」。
もう一つは「チュチェ思想」を変質させ個人独裁に利用した首領絶対主義「金日成・金正日主義」である。現在、朝鮮メディアなどで「チュチェ」という言葉はよく使われるが(チュチェの旗を高く掲げて、チュチェ朝鮮など)「金日成・金正日主義」のことを「チュチェ思想」とは言わない。
前者は、人間の抑圧からの解放と発展のための思想・哲学であるのに対し、後者は政治哲学である。
当ブログは前者の「チュチェ思想」を研究し発信している。
「チュチェ思想」分派の経緯
金正日の後継争い・権力闘争に端を発する
朝鮮大学校副学長、在日本朝鮮社会科学者協会会長、主体思想国際研究所理事などを歴任したチュチェ思想研究の第一人者である朴庸坤(パクヨンゴン)先生の著書から引用する。
「一九八〇年の第六次党大会で金日成の後継者として公式に登場した金正日は、主体思想について数多くの論文を発表し、主体思想の解釈権をもつ思想家であると内外にアピールしていた。北朝鮮の権力の源泉はイデオロギーの独占にあった」
「 一九八六年七月、当中央委の責任幹部との談話『主体思想教育における若干の問題について』を発表した。金正日は、談話で①主体哲学の原理を再確認し、②革命の主体、『社会政治的生命体』論を展開して、ウリ(我々)式社会主義の優越性を強調し、③ソ連のペレストロイカ(立て直し・改革)と中国の改革開放を否定的に論じていた」
「この 『社会政治的生命体』論 は、ある種の国家有機体説で、首領を脳髄、党を中枢神経、人民を細胞に比するもので、人民はこの生命体に寄与することによって、有限な肉体的生命を超越する、永遠不滅の社会政治的生命を首領から賦与されると説いた」
「国家全体をひとつの生命体とみなす理論は、第二次世界大戦前のナチスの国家統治理論に類似していて、知識人から総スカンを喰らった。また、個別科学である生物学の概念を全体科学である哲学の概念に流用するのは、方法論的にも誤謬(ごびゅう)に陥りやすいと批判された」
「この理論の延長線上で、『オボイ(父なる)首領』、『オモニ(母なる)党』と呼ぶ、疑似的な血縁集団に似せて北朝鮮社会を描写する思考が生まれてくる。さらにその先に、金日成一族の血統を崇拝する、『聖家族』『白頭の血統』伝説まで生まれてくる余地があった」
「現代を自主の時代と規定し、その時代の精神的精髄を内包していた主体思想が、しだいに権力に阿諛(あゆ)する思想の色彩を濃くする過程で、真理を追究する普遍的哲学としての純潔性を失い、独裁権力を合理化する政治哲学に変節しはじめたのである」
―朴庸坤 (2017) ある在日朝鮮社会科学者の散策「博愛の世界観」を求めて 現代企画室
1994年7月、金日成主席の死去により、金正日は事実上の最高指導者として統治を始めた(3年間喪に服し表に出なかった)。
黄長燁による金正日への挑戦
再び朴庸坤氏の著書から引用する。
「一九九六年二月、モスクワで『自主、平和、友好に関する主体思想国際セミナー』が、三〇余か国から三〇〇名ほどが参加して開かれた」
「国際セミナーはスケジュールどおり進められ、無事に終わった。しかし舞台裏で事件が起きていた。黄長燁はモスクワ大学の哲学教員二〇名ほどを大使館の別室に集めて、達者なロシア語で心にある思いを訥々(とつとつ)と話した」
「それは主体思想が世に出た経緯、主体思想の深奥な内容、その哲学的意義などであったが、『主体思想はわれわれの仲間が作ったものであり、首領の神格化、絶対化とは絶対に無縁である』ときっぱり断言した。それはイデオロギーの審判者、金正日の逆鱗にふれるものであり、黄長燁による金正日への挑戦でもあった」
「談話の全容は同行した監視員の手で録音されていた。録音は平壌ですぐ朝鮮語に翻訳され、関係者に配布された。こともあろうに、主体思想の海外宣伝の責任者が一〇大原則に反する言説を弄(ろう)するとはなにごとだ、怪しからん、と党内は大騒ぎになった。党機関紙『労働新聞』はモスクワ国際セミナーの論評で、黄長燁を『陰謀家、背信者、野心家』と名指しで批判した。金正日は即刻、黄長燁を呼びつけ、自己批判書を差し出すよう厳しく命じた」
「一九九六年七月、金正日が党中央委理論雑誌『勤労者』に寄せた談話、『主体思想は独創的な革命哲学である』が発表された。前文は、『最近我が国の一部の社会科学者が主体哲学の解説にあたって、我が党の思想に反する誤った見解を主張しており、そのような見解が対外的にも流布しているという問題が提起された』とあった」
「『一部の社会科学者』とは、黄長燁とそれに連なる主体科学院、金日成総合大学哲学部の研究者(私、朴庸坤も入る)を指していると、誰の目にもはっきりわかった。さらに、その思想は『わが党の思想に反する思想』、反党思想であると厳しく断罪していた」
―朴庸坤 (2017) ある在日朝鮮社会科学者の散策「博愛の世界観」を求めて 現代企画室
民族を愛し、真理を探究する哲学者である黄長燁はチュチェ思想の首領絶対主義への変質を看過できなかった。またさすがの金正日もチュチェ思想の創始者の一人でありインテリの黄長燁を簡単には粛清することができなかったようだ。
引用を続ける。
「この談話で看過してはならないのは、主体哲学を『わが党の革命哲学であり、政治哲学』とはっきり性格づけたことである」
「この談話以降、主体思想研究所は空洞化、形骸化し、哲学的原理の基礎や基本原理に関する諸問題の学究的研究は衰退しはじめた。その後に登場した『先軍思想』に主役の場をゆずり、主体思想は徐々にその姿を消していった」
「金正日も主体思想に関する関心が薄れたのか、主体思想に関する談話、労作を出さなくなった」
―朴庸坤 (2017) ある在日朝鮮社会科学者の散策「博愛の世界観」を求めて 現代企画室
要約すると金正日は党内闘争に勝ち「イデオロギーの審判者」となった。
しかし黄長燁の挑戦によって、それまで解釈権にこだわっていた「チュチェ思想」を手放し、党の指導思想であった「チュチェ思想」は、首領絶対主義である「金日成主義」、現体制の「金日成・金正日主義」という全く別ものへと分派していったということになる。
また黄長燁は1997年2月、南朝鮮へ亡命し金正日体制批判などの活動を展開する。
結局「チュチェ思想」とは何なのか
チュチェ思想に対する筆者の見解を述べる。
- 人間の運命は、神的存在や各自のおかれた環境が決めるものではなく自分自身で切り開いていくものである
- なぜなら人間は自主性と創造性をもった社会的存在であり、自主的・創造的に環境を変えていく力があるからだ
- また前提として唯物論的に世界をみるので、非科学的で観念論的なものの見方はしない
- チュチェ思想は抑圧された存在、つまり主体性を失った存在のための思想であり、あらゆる抑圧からの人間の解放・発展のための革命哲学ということができる
- 朝鮮に適用した場合、朝鮮の運命は外部勢力が決めるのではなく、朝鮮人自身が決める、ということになる
- 在日朝鮮人に適用するならば、自身には環境を変え運命を切り開く力があるのだから、まわりの環境にとらわれず朝鮮人として主体的に発展していけばいい、となる
筆者がチュチェ思想の研究を始めた経緯
筆者は両親がノンポリだったので日本学校出身で民族教育は受けていない。
虚無主義者ではなかったし自分は朝鮮人だという意識はあったが「朝鮮人として誇りとは何か」 「朝鮮人としてどう生きていけばいいのか」という自問に答えられないまま生きてきた。
社会人になってから北朝鮮に関心を持ち金日成著「チュチェ思想について」を読み朝鮮民族にこんな進歩的な思想があったのかと衝撃を受け、深く感銘を受けた。
以来チュチェ思想・朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮半島の歴史などを勉強し研究している。
チュチェ思想を人生に適用し主体的に生きることによって「朝鮮人としてどう生きていけばいいのか」という自問に解答を与え 、チュチェを確立し未来志向で発展していくことが「朝鮮人としての誇り」という答えを出すことができた。
金日成主席の思想が、著作・演説文が時代をこえて一人の朝鮮人を覚醒させ人生を変えた。思想あるいは言論の影響力はものすごく強いと身をもって知った。
現在「チュチェ思想」を紹介したコンテンツは極めて少なく、様々なメディアでチュチェ思想=首領崇拝思想として紹介され、社会に認知されている。
この現状に危機感いだき、コンテンツが無いのなら自分で発信しようとサイト開設に至りました。
自己肯定感の低かった昔の筆者のような人に解答を与えられるヒントになれれば幸いです。
研究中の身であり至らない点もありますがこれからも発信を続けてまいります。