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中ソ対立の間で登場する
チュチェ思想は、1950年代後半から表面化した国境を接する同じ社会主義陣営の中華人民共和国とソビエト連邦の対立の間で朝鮮民主主義人民共和国はどちら側にもつかず自主路線でいくと決めた、最高指導者・金日成氏の考えから生まれた。
「わが国では、久しい前から一部の人の頭のなかに、自己の力を信じないで、頭から他人を崇拝し大国に仕える卑屈な事大主義思想が生まれました。こうした思想にむしばまれた人は、国の危急に際してもしっかりと自国の人民をよりどころにして、自分自身の力で危機をのりこえようとはせずに、他人ばかり頼りにしながらそれぞれ自分の主人をうしろ盾にして党派争いにうき身をやつしました。こうして結局、わが国は他人のえじきとなりました」
「事大主義はその後も克服されず、それにまた教条主義まで重なって、わが国の革命発展に大きな害毒をおよぼしました。わが国で民族主義運動が挫折し、初期の共産主義運動が失敗したのも、その主な原因は事大主義と、そこから源を発する分派主義にありました」
「わが国だけでなく、他の国でもこのような実例を多くみうけることができます。他の国の民族解放運動や共産主義運動においても、主体的な立場を堅持することができず、外国の思想潮流をうしろ盾にした派閥が生まれ、革命の発展に多くの支障を与えたことがあります」
「われわれは、ここから、人が事大主義に陥れば愚か者になり、民族が事大主義に陥れば国が滅び、党が事大主義に陥れば革命を台無しにするという深刻な教訓をひきだしました」
―金日成 (1979)「チュチェ思想について」白峰文庫
事大主義・教条主義を排除しなければ国が滅び、民族が滅ぶ。
黄長燁(ファンジャンヨプ)氏について
黄長燁 1923年、現在の朝鮮民主主義人民共和国の平壌郊外にある江東郡生まれ。戦前に日本の中央大学(夜間)で学び、49年にモスクワ大学へ留学し哲学博士号を取得。金日成総合大学総長、最高人民会議議長、朝鮮労働党国際担当秘書、最高人民会議外交委員長などを歴任。金日成の理論書記などをつとめた。97年南朝鮮へ亡命。10年死去。
チュチェ思想は金日成主席の考えから生まれ、黄長燁が哲学的に体系化した
黄長燁氏の著作から引用する。
「チュチェ思想とは私が創造したものではなく、金日成の考えだ。要約すれば、ソ連の隷属から解放し、独立するという考えだ。つまりソ連に対する事大主義とソ連に依拠する教条主義を捨てるということだ。マルクス主義を北朝鮮の現実に合わせるのがチュチェ思想だ。そういう考えに衣を付けたのが私で、新しい思想ではない」
「『チュチェ思想とは何か』という定義は私が行った。1972年9月17日の文献だ。それまでチュチェ思想とは何かという定義はなかった。72年、毎日新聞のインタビューに『チュチェ思想と朝鮮労働党の対内外政策』という題目で出した。ここで初めて私は、『チュチェ思想とは、革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推し進める力も人民大衆にある。自己の運命の主人は自分自身であり、自分の運命を切り開くのも自分自身である』とした」
「金正日(キムジョンイル)も大いに賛成したが、だんだん彼は『革命と建設の主人は人民大衆』から『主人は無産階級』と直し、次には『革命の主人は首領』という風に直した。そして首領絶対主義を唱えるようになった」
―久保田るり子 (2008)「金正日を告発する 黄長燁の語る朝鮮半島の実相」 産経新聞出版
ネット上などで、「チュチェ思想は黄長燁がつくった」といった情報が散見されるが間違いである。