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17歳ですでに権力欲の強かった金正日
チュチェ思想の創始者の一人であり、金日成主席の理論書記をつとめ、金一族の内実に詳しい脱北者の黄長燁(ファンジャンヨプ)氏の証言を引用する。
「一九五九年の一月、わたしは金日成に随行し、ソ連共産党第二十一回大会に参加するためにモスクワに行った。金正日は高級中学校卒業班だったが、わたしたちに同行した。わたしは金正日が父の金日成について党中央の行事に出るところを何度か見かけたことはあったが、直接会ったのは初めてだった」
「金正日は、わたしが金日成総合大学で教授をしていたことを知り、特別わたしに好感をもって接し、わたしもやはりかれを指導者の息子として暖かく接しながらよい関係をもとうと務めた。金正日は怜悧(れいり)で好奇心が強く、わたしに大学の学科内容についていろいろと質問した。わたしが哲学専門家として、社会科学や文学だけでなく、自然科学についても若干の常識があったせいか、かれの質問を大体満足させたようだ」
「かれは公式行事には参加せず、宿舎に残るときが多かったが、そんなときはわたしにも残ってくれと頼んだ。可能なかぎりわたしも残り、一緒に話をした。話しながら受けたかれの印象は、若年ながら、すでに政権欲が強いということであった」
「かれは父親に仕えることにとりわけ大きな関心をよせた。毎朝父親が出かけるときは介添えし、靴を履かせたりもした。金日成は当時四十七歳、元気旺盛で介添えの必要などなかった。しかし金日成は息子の介添えに満足していた」
「夕方、金日成が帰ってくると、金正日は副官たちや医師、看護婦などの随行員たちを集合させ、その日あったことを報告させ指示をしていた。金日成に随行した代表団には政治局員も多かったが、金日成の仕事を直接掌握し、副官や医師、看護婦などの随行員に具体的な仕事を指示することは常識では考えられないことであった」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
父子ともにとても儒教的・家父長的な印象である。また金正日は賢くこの頃からすでに権力・序列についてよく理解しているように見受けられる。
金日成による独裁の強化
金日成による政敵の粛清と個人独裁強化
1956年の8月宗派事件で南労党(南朝鮮労働党)派・ソ連派・延安(中国)派が粛清され金日成(満州派・パルチザン派)による独裁が強化されていった。
「このとき(筆者注:1966年)金日成は政敵である南労党派とソ連派、延安派をことごとく粛清し、パルチザンと連帯して初期の段階から国内で活動していたと主張する甲山(カプサン)派まで追い出そうとしている最中であった。その中には金英柱(筆者注:キムヨンジュ、金日成の弟で党の組織部長として事実上の北朝鮮のナンバー2)の側近たちも多く含まれていた」
「この時期に金正日はすでに政治的影響力を行使しはじめていて、叔父である金英柱を含む金日成の側近たちまで除去しようとしているかのような印象をわたしは受けた」
「おべっかの基本は、へつらう相手の敵を人為的にでもつくりだし、その敵を攻撃することから始まる。金正日はその方法を使った。かれは自分が父にたいして一番忠実であることを見せつけるために、金日成の側近たちの中であらかじめ目をつけておいた人たちに忠実でないと理由をつけ、ある人は思想を、または無能を口実にして仮借なく攻撃しては除去していった」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
金日成主席の統治思想は「スターリン主義」である。
「スターリン主義」とは労働者階級を代表する党が独裁政治を行い(プロレタリア独裁)、その党は強いリーダーシップの首領が個人独裁で運営するというもの。
金日成による党内の権力闘争で政敵の粛清を繰り広げたため、後継争いは一族の金英柱・金正日の一騎打ちとなった。
プロレタリア独裁の強化とインテリへの圧迫
「金日成の一九六七年五月二十五日の教示は、北朝鮮社会を特異な形態の極左へと追いやる一つの転換点となった。このとき表面化したことは、過渡期とプロレタリア独裁にかんする理論闘争であったが、その基底には中国の文化大革命の影響がしみこんでいた」
「つまるところこの論争には、階級主義立場で独裁をいっそう強化し、金日成にたいする個人崇拝を深化させようとする統治集団の要求と、階級闘争とプロレタリア独裁を弱め民主主義を拡大することを渇望するインテリ層という二つの対立が横たわっていた」
「金日成はソ連の右傾修正主義と中国の左傾冒険主義に反対し、中立の立場をとるとしていたが、民主主義的インテリに反対し、独裁を強化しようとしたことでは中国の文化大革命を模倣した」
「当時北朝鮮の民主主義はとるに足らないものだったため、政治闘争にまではいたらなかったが、これを契機に金日成にたいする偶像化がより強化され、『インテリの革命化』のスローガンのもとにインテリたちへの圧迫が強くなったのは偽りのない事実である」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
金日成は1960年代には党内の政敵を粛清し個人独裁体制を築いた。
党を掌握すると今度は「プロレタリア独裁」の強化に乗り出し、民主主義的インテリを圧迫する。
なお立ちおくれた封建的な思想が根強く残る朝鮮は、日本の植民地化による「近代化」や解放後の社会主義教育を経ても「当時北朝鮮の民主主義はとるに足らないものだった」とあるように、人民大衆には近代的で民主主義的な考え方は根づかなかったのではないだろうか。
この過程を経て封建的な「首領絶対主義」国家の土壌ができあがる。
金正日の実権掌握
封建主義が色濃い朝鮮 金日成に対する忠誠合戦で勝利した金正日
「一九七三年の初めからわたしは平壌近郊の鉄峰里(チョルボンリ)保養所で哲学研究を続けた」
「わたしが鉄峰里保養所で作業をしているとき、党中央の実権は徐々に金正日に移りつつあった。こうなると封建主義が色濃い北朝鮮にあっては、多くの人びとの目に金正日が後継者だということが目に見えてきた。金正日にたいするへつらいが目につくようになってきた」
「一部の人は金日成とともに抗日武装闘争をした元老たちが金正日を後継者に推しあげたと誤解しているが、そうではない。抗日闘士の中にはそのような見解を出せるような人物もいなかった。かりにそうした意見を提起した人間がいたとしても、金日成がすこしでも反対意思を表明すればそのようになるはずがなかったからだ」
「結局世襲継承となったのは、一人独裁が固まり、長期化したからこそ可能となったと言える。金日成は現代的な政治感覚に乏しく、封建思想が濃厚で、国を自分の息子に譲るというとんでもない考えを持つようになったのである」
「さらに金正日本人が、父親から権力継承を受けようという野心をもって活発に動いたことも作用した」
「一九七四年二月の党全員会議で金日成は、弟である金英柱にたいして、活動意欲がなく、自分を十分に助けないと批判した。誰も金日成の批判に意見する者はなかった」
「金英柱は党全員会議で副総理に降格された」
-黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
1974年2月の党全員会議で金英柱の敗北、金正日の勝利が決定的になった。
金英柱は、狡猾で無慈悲な金正日に敵わなかった。彼はその後、金正日によって地方の山奥へ送られ18年間軟禁されてしまう。
「金日成主義」の宣布
「一九七四年、金正日は実権を掌握した途端、金日成の神格化を高める作業に着手した。かれは自分の叔父が以前に作成したことのある唯一思想体系確立の十大原則を、金日成をいっそう偶像化する方向で改作した」
「同時に自身にたいする偶像化を強化するためにあらゆる手段を総動員した。党組織は、かれが幼いころから人民の指導者になる素質をもって生まれたという史蹟を捏造する作業を組織的にすすめた」
「一九七四年二月十九日、金正日は金日成の思想を『金日成主義』と宣布した。そしてそれが主体思想を核心とする思想、理論、方法の全一的体系であると定位化した。いうまでもなくその中に哲学的内容はなかった」
「金正日がこの論文を発表した目的は、おそらく金日成の権威を高める一方で、主体思想の旗を高くかかげてすすむことを人々に見せようとしているようであった」
「しかしレーニンも『レーニン主義』という言葉を使ったことはなかったし、スターリンや毛沢東も『スターリン主義』『毛沢東主義』という言葉は使わなかった」
「事実上、マルクスは自身の固有の哲学体系をもっていたと見ることができるし、それは一つの独創的な思想体系だと見ることができる。レーニン、スターリン、毛沢東などは政治的な戦略戦術の面で自分の見解を打ち出しはしたが、哲学的原理の面ではマルクス主義を発展させることはできなかった」
「レーニンは十月革命を勝利に導いたという点で、理論の創始者であるマルクスとともに理論を最初に実践した指導者としての評価を受けることがができるが、スターリンはマルクスやレーニンのような名誉を受ける権利はない」
「まして金日成が歴史の発展になにを寄与したのかを考えたとき、『金日成主義』を提唱するとは笑止千万な話である。そのうえまだ毛沢東が生きていたときの話である」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
1972年12月27日に最高人民会議第5期第1回会議で採択された「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」。
第1章の第4条に「朝鮮民主主義人民共和国は、マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した朝鮮労働党のチュチェ思想をその活動の指導指針とする」とある。
金正日が後継者として公式決定したのが1974年2月の党中央委員会第5期8次全員会議。
チュチェ思想が指導思想として公式デビューした「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」採択の約1年2ヶ月後の1974年2月19日、実権を掌握した金正日により早くも「チュチェ思想」を首領絶対主義へ変質させた「金日成主義」(党の唯一思想体系確立の10大原則)が登場する。
金正日の人心掌握術
中国朝鮮族出身で北朝鮮問題に詳しい李相哲氏の著書から引用する。
「これ(筆者注:パーティー)に参加できない人間は、金正日から信頼されていない証拠なのだ。パーティーに招かれ、金正日と直接交わる幹部たちはどんどん出世した」
「メディアの報道では、二〇一〇年金正日は、側近たちにメルセデスベンツを一度に一五七台も贈ったという」
「要は、金正日は人の心を掴むことに尋常ならざる注意を払う人間なのだ。前述の金正日の義姉、成ヘランの手記を読むと、官邸の運転手の結婚相手まで世話をしていたという。このような手段で金正日は忠臣を養い、党内の動きを察知し、人間と情報を統制した」
「一方、金日成に対しても朝晩、無事を確認し、みずから父の健康状況を確かめるほどの孝行ぶりを見せた。父の目の負担になるからと、金日成にあげる報告書の文字を大きく、要点のみ書くよう指示し、その報告を録音して提出するよう命じた」
「報告書の文字を大きくし、録音して金日成にあげるというアイディアは、親を思う気持ちから出たものかもしれないが、その結果、金日成にあがる情報量は極端に減り、また遅くなった」
「逆に、すべての情報は金正日に集中し、金正日の判断で報告すべき事項が選別され、決裁されるシステムに変わった。あくまでも“偉大なる首領様”の心慮(心配事)を減らすためだったというのだが」
「考えようによっては、金正日が軍事委員会書記に就任した一九八〇年から、北朝鮮は実質的に金日成と金正日の共同統治に入っていたという見方もできる」
「そして、金正日が軍部の実権をにぎったその頃から、北朝鮮は次々に国際的なテロ事件を引き起こした」
「(前略)南北の競争において劣勢に転じはじめた北朝鮮の焦りの表れと言われるが、実は、金正日が実績づくりのため、父と元老たちの歓心をかうために一連の事件を起こしたと見られる」
「このように、北朝鮮の権力は金日成の知らないうちに、金正日に集中していったのだ」
李相哲 (2011)「金正日と金正恩の正体」文春新書
金正日はパーティー・贈り物で忠臣を手なずけ、反対する者は秘密警察で処分した。「金日成」「首領様」を前面に出し、父への孝行ぶりを見せていたが、その実は権力継承のためであり、時間をかけ巧妙に工作し、着実に党の支配をすすめていった。
独裁者の「北朝鮮」の始まり
再び黄長燁氏の著書から引用する。
「金正日の実権掌握は誰の目にも明らかなほどになっていった。そして実権を握れば握るほど横暴な振る舞いが日ごとにひどくなっていった」
「金日成のもっとも大きな弱点は、ほとんどの独裁者がそうであるように、自分の愛する人間の言葉だけを信頼することと、家族主義の傾向が濃厚なことである。金日成のこうした性格について、わたしはあるパルチザン出身の幹部に質問したことがあった。かれはこう答えた。『パルチザン闘争のときには信じられる人が限られていたために、自然にそうならざるをえなかったんでしょう』」
「金正日は金日成の気に入られるために巧妙にことを運んだ」
「また自分の基盤を固めるために側近者たちとひんぱんに酒席を設けて自分の力を誇示した。この酒席で多くの外貨を浪費し、またいたるところに別荘を建て、狩猟場をつくらせた」
「金正日がくり広げる酒席の光景は、想像を超えた乱痴気騒ぎの場であった。金正日がその場で一人を指して、『きょうからおまえは党中央委員会の委員だ』と宣言してしまえばそのとおりになり、『誰それはクビだ』といえばそのとおりに執行された」
「金正日が党機構を即興で動かすようになると、思いつき政治を誹謗する声が高まった。すると金正日は秘密警察の数を増やし、自分を中傷する疑いがあるとの密告を受けると容赦なく逮捕し処断した」
「一つの例として、一九四八年に金日成総合大学の専任の党活動家は大学党委員長一人と宣伝指導員、統計員が各一人ずつであったが、金正日が実権を握ってからは各学部にまで専任党秘書をおくようになり、大学の専任党活動家は五十人を超えた。そして社会安全部(警察)と国家保衛部(秘密警察)も大学に部署を設けて常駐するようになった」
「パーティーは金正日の個人生活の延長とも言える。そこではふつうの人々が驚くほどに自由奔放で、西側文化といってもよい一面を垣間見ることができる。しかし金正日は徹底した独裁者であり、封建的な思想の持ち主である。かれの私生活の放蕩ぶりを見て、現代的感覚があると見るのは大きな間違いである。かれの自由奔放さは帝王のそれにほかならないものである」
「このころ(筆者注:1989年)の金日成は、往年の元気と意志が衰え、息子の金正日のご機嫌取りをするありさまだった」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
まとめ
「金正日はなぜ後継争いに勝てたのか」理由をまとめる
- まず1960年代に党内権力闘争に勝利した金日成による党の個人独裁体制が確立された
- そして1960年代後半に党(金日成)の「プロレタリア独裁強化」の施政によりインテリ(民主主義の拡大を望む)層を圧迫し、国内の民主主義勢力が壊滅した
- また北朝鮮社会は立ちおくれた封建主義が根強く残っており、民主主義勢力は取るに足らないものだった
- 金日成自身も封建主義・家族主義が色濃かった。また現代的な政治感覚にも乏しかった
- また金正日も父親から権力継承を受けようという野心をもって活発に動いた
- 金正日は狡猾・無慈悲で人心掌握術にすぐれていたので時間をかけ巧妙に実権を掌握した
筆者は朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮労働党は支持するが世襲には反対する立場である。
金正日が後継争いに勝てた理由はいろいろあるが 、最大の理由は金日成主席にあると思う。
金日成主席は日本の植民地時代に統治者日本に反対し銃を手に取り抗日活動をした勇気ある朝鮮民族の英雄である。そして抑圧された朝鮮・朝鮮民族の解放には「主体性」が必要だという朝鮮革命の核心をついた「チュチェ思想」を考案した偉大な人物である。
しかし金日成主席はカリスマ的な指導者だが、知識人ではなかった(マルクスも読んでなかったと言われている)。そのため立ちおくれた封建主義(李氏朝鮮)・家族主義・儒教などに反対していたにもかかわらず、自身にも封建主義・家族主義が色濃く残っており、自らが創始したチュチェ思想に反し、世襲という社会主義国・人民共和国としての最大のタブーをおかしてしまう。
金日成主席は純粋な人だったと思う。その父に対し生まれついての独裁者・利己主義者の金正日が他人だけでなく父をもだまし実権を掌握していったというのが事の顛末ではないだろうか。
金正日への後継者決定のプロセス
- 1972年10月、党中央委員会第5期5次全員会議で党中央委員に選出
- 1973年9月、党中央委員会第5期7次全員会議にて金正日を組織担当書記兼思想担当書記に極秘任命する。それを受けて、党の細胞ごとに金正日を唯一の後継者に推戴(すいたい)することを誓う決議文を出す
- 1974年2月、党中央委員会第5期8次全員会議で、各細胞での決議文を受けて金正日を唯一の後継者として公式決定する。金正日を政治局委員に任命する
- 1974年4月、党中央委員会政治局会議にて金正日の主導で「党の唯一思想体系確立の10大原則」(金日成主義)を決定、公布する
- 1975年2月、党中央委員会第5期10次全員会議で金正日の公式称号として、「金日成首領の唯一の後継者」「英明なる指導者」「親愛なる指導者」が決定される
- 1991年12月、金正日は朝鮮人民軍最高司令官となる
- 1992年、憲法改正により「国防委員長」のポストを国家主席(金日成)の兼任から引き離す
- 1993年4月、金正日が国防委員長に選出され名実ともに軍のトップに立つ
- 1994年7月8日、金日成主席死去により最高指導者となる