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首領崇拝思想である「金正日思想」
まずは現在「チュチェ思想」として認知されている「金正日の思想」について解説したい。金日成主席が考案した、朝鮮の「民族自決」の重要性などを説く思想・哲学が「チュチェ思想」。金正日は党内権力闘争に勝つと、朝鮮の解放・発展の哲学である「チュチェ思想」を個人崇拝思想に変質させる。1986年に発表された金正日によるチュチェ思想の独自解釈である「社会政治的生命体論」の内容は、
- 首領を脳
- 党を神経
- 人民を細胞
とする国家有機体説で、人民はこの国家生命体に寄与することで、有限な肉体的生命を超越する永遠不滅の社会政治的生命を首領から与えられる、とするものである。国家全体としての「主体」を重視して、個人の「主体」を(首領が絶対とする点から)軽視・否定する全体主義思想だといえる(ただし、「主体」という概念は国家か個人かの二元論ではなく視点に応じて様々な単位に当てはめられる)。首領(脳)の指示通り人民(細胞)が動けば朝鮮革命は成功し、われわれは幸福になれる。ゆえに人民は自分で考えず首領の指導の通りに動きなさいとする論である。
これは宗教的・非科学的で唯物論とは当然言えないし、朝鮮を解放・発展させる思想とも思えない。このことから当ブログは「社会政治的生命体論」に代表される金正日の独自の解釈は「チュチェ思想」として認めない立場である。現在この流れをくむ首領崇拝思想・指導思想を朝鮮労働党は公式に「金日成・金正日主義」と呼んでいる。
ミクロとマクロの関係
例え党(首領)の指導が的確であったとしても、人民大衆のモチベーションが低ければならばどれだけ人口が多くても国家は発展しようがない。逆に人民大衆にどれだけモチベーションがあっても社会のシステムに欠陥があれば個人の才能を活かせず国家の発展に支障が出る。つまりミクロ(個人)とマクロ(全体)が相互に作用しあってこそ発展できるので、
- 指導部が優秀なら言うとおりに動いていれば国家は発展する
- または指導部がダメでも個々人が優秀なら国家は発展する
といった二元論とはならない。やはり指導部と人民、双方のレベルアップと相互作用が必要となる。弁証法的発展ということができるだろう。
一人ひとりの主体性
当ブログは、首領の世襲および個人崇拝には反対だが、朝鮮労働党の独裁体制は支持する立場である。なぜ党の独裁を支持するかというと、「民主主義国家」のように選挙のための政治を行ったり、国が分裂するよりも、一つの党に優秀な人材が集まって国家を運営していく方が合理的で発展性があると思うからだ。
これからの朝鮮はどうあるべきか考えてみよう。
まず、人民の共和国という理念に反する首領の世襲には反対だ。また首領に依拠する「弱い組織」という構造からなるリスクの面からも個人崇拝はやめ、中国やベトナムのように集団指導体制に移行し「強い組織」を構築すべきだ。経済面では改革開放が必要だ。1990年代の「苦難の行軍」で配給制が崩壊し、国内に公認の自由市場と物流網が構築されており、人民経済はすでに市場原理で回っている。市場には中国経由で様々な物入ってきており金さえあれば何でも手に入れることができるという。
党・軍人・ビジネスマン・労働者など国家の構成員は、人民の中から供給される。つまり分解して突き詰めると、国家の発展の源泉はやはり人民一人ひとりということになる。また、人間の思想・能力は「ゲノム」で決まるわけではないので「出身成分」をなくし能力に応じて優秀な人が出世できる社会にするべきだ。
つまり国家を一つの生命体とし「脳」である首領の指示命令に依存する「金正日思想」とは反対の考え方だ。どちらの考え方でも対外的には国家が一つの「主体」という概念はあるし、党が国家を運営するという構造に違いはないが、その国家を形成する構成員はすべて人民から供給され、国家の発展の源泉は人民一人ひとりの力となる。
そして、国家の発展の源泉が人民一人ひとりの力であるのならば、「一人ひとりの主体・発展の重要性がチュチェ思想の本質である」と筆者は主張したい。
この主張をすると「自由主義者」「個人主義者」などと批判をされてしまうのだが、個人主義の国の集団・組織が機能していないかというとそんなことはない。集団・組織とはそもそも社会・社会人のデフォルトである。また集団主義を標榜する国でも、分解して突き詰めると結局は一人ひとりのモチベーションが必要なのだ。
これは、
- 革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推し進める力も人民大衆にある
- 自己の運命の主人は自分自身であり、自分の運命を切り開くのも自分自身である
というチュチェ思想のテーゼとも合致する。
つまりここで述べたことは金正日が逆転させた思想・社会構造を正常・健全な状態に戻す作業だということになる。
家父長制からの脱却とチュチェ思想の止揚
チュチェ思想は金日成主席が考案した、朝鮮民族を抑圧から解放し、発展させる哲学だ。日本植民地時代、金日成主席は抗日パルチザンとして実際に銃を手にとり日本と戦った。解放後ソ連から帰国し、マルクス・レーニン主義の事実上ソ連の衛星国として朝鮮民主主義人民共和国を建国したが、1950年代後半から表面化した中ソ対立の間で、どちら側にもつかず自主の道を選び朝鮮は「チュチェの国」となった。
金日成主席は朝鮮民族の英雄であり、建国の父である。
チュチェ思想信奉者は、いわば金日成主席の子であり、朝鮮労働党の喧伝する「金日成民族」という言葉もある意味間違いではない。
金日成主席は朝鮮民族の「太陽」であり、精神的支柱だ。筆者も金日成主席をとても尊敬している。しかし成長するためには偉大な父親のもとから離れ、自分の足で立ち、歩んでいかなければならない。
金日成主席がいなくても朝鮮民族は自立し歩んでいける。朝鮮革命に人生を捧げた金日成主席もそれを望んでいるはずだ。親(金日成主席)を超える。これこそチュチェ思想的な考え方だと思う。
肖像画を外しても朝鮮として自主を保てる真の人民共和国への発展が望まれる。それこそがチュチェの国、主体的な集団だといえるだろう。