目次
チュチェ思想の定義
研究の進展や、読者様からのご指摘を受けてチュチェ思想の理解・認識が深まり、今回改めてチュチェ思想の定義を行う。
世界観
まずは前提となる「世界観」。
朴庸坤(パク・ヨンゴン)著「チュチェ思想の世界観」(1981)を参考文献とする。この著書は、朴庸坤著「ある在日朝鮮社会科学者の散策『博愛の世界観を求めて』」(2017)によると、在日朝鮮人社会科学者である朴庸坤氏が、金日成総合大学に付属する主体思想研究所にて1979-1980年にかけて研究生活をし、その集大成として1981年に日本の未来社から出版された学術書である。
この書籍は研究・出版された時期から、後述する「金日成学派」の参考文献といって良いだろう。
世界の一般的特徴
「マルクス主義哲学によって解明された世界の一般的特徴を一言で要約すれば、世界は人間の意識に依存することなく客観的に存在する物質からなりたっており、たえず変化発展することである」
「世界が物質からなりたっておりたえず変化発展するという哲学的原理は、それが物質以外にいかなる存在も認めないという点で唯物論的であり、世界が固定不変なものでなく、たえず変化発展することを認める点で弁証法的であるといえる」
「唯物弁証法的な哲学的原理の確立は人類の世界観発展に大きく貢献した。しかしこの哲学的原理は世界観の根本問題である世界において占める人間の地位と役割を解明するうえで必要な前提になるだけであって、人間の本質的特徴、および人間と世界との本質的な関係については解答を与えることができなかった」
―朴庸坤 (1981) 「チュチェ思想の世界観」 未来社
マルクスは世界は物質から成り立っており、それは人類の支配的な世界観であった人間の意識や神など精神が先行する非科学的な観念論は間違いであることを明らかにした。そして、その世界は客観的な合法則性による運動でたえず変化・発展するものであると解明した。
弁証法的唯物論といい、これはチュチェ思想においての前提となる「世界の一般的特徴」である。
人間の本質的特徴
「人間は、動物のように自然に与えられた環境と生活手段に依存して生きていくのではなく、何よりも自らの力で創造した環境と生産手段によって生きていく。換言すれば、人間は自然に与えられた生活環境と生活手段の制約から解放され、自己の生存に必要な生活環境と生産手段を自らの力で創造し生きていく」
「人間も環境なしには生きていけないが、しかし人間は自己の生存に必要な環境を創造していくので、環境に依存し拘束されるのではなく、環境を支配する主人としての生活的要求である自主的に生きようとする要求をもつようになる」
「この点で人間が自主的に生きようとする要求をもつのは、客観的世界を自己の要求に合わせて改造しうる創造的能力をもつこととかたく結びついている」
―朴庸坤 (1981) 「チュチェ思想の世界観」 未来社
マルクスが確立した弁証法的唯物論は人類の世界観発展に大きく貢献した。しかし人間の本質的特徴、および人間と世界との本質的な関係については解答を与えることはできなかった。
チュチェ思想は、「人間は自主性と創造性をもった社会的存在である」とみる。
引用文にあるように、人間も環境なしには生きていけないが、環境に依存し拘束されるのではなく、人間の要求に合うように環境を改造しようとする自主性と創造性をもつ。そして人間は社会を構築して生きていく社会的存在である。
無人島や山奥で自給自足をして、社会と一切関わりをもたずに人ひとりで生きていくことはできるだろう。しかし基本的に人間は社会を構築し何らかの生産に参加して生きていく社会的存在である。
ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(2016)によると、人類(ホモ・サピエンス)は、自分が直に見ていない事物(出来事・英雄・神・虚実など)をつくる・話す・聞いて認知することができるようになった「認知革命」を経て大規模な集団・社会を築けるようになり、「農業革命」「科学革命」を経てさらに大きく発展・拡大してきた。
これらの発展は、人間が自主性・創造性をもち、社会的存在として協業・分業することによって成し得たといえるだろう。そして最先端の科学技術が社会のAI化・自動化に向かったり、火星移住を目指すのも、人間は環境に依存し拘束されるのではなく、環境を改造し自主的に生きようとする要求をもち、それを実現する創造力があるからだといえるだろう。
これが二つ目の前提となる「人間の本質的特徴」である。
チュチェ思想の哲学的原理
「人間は世界における唯一の自主的存在であるので、世界の主人の地位を占め、人間は世界において唯一の創造的存在であるので、世界を変化発展させるうえで決定的な役割を果たす」
「もちろん、人間とそれを取り巻く世界は互いに影響をおよぼし合う。しかしここでつねに主導的な地位を占めすべてのことを自主的に有利に変化させる存在は、自主性と創造性をもったもっとも発展した存在である人間である。この点で人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという哲学的原理は、世界にたいする人間の決定的な優位性を解明する哲学的原理はであるといえる」
「『世界の一般的特徴』と『人間の本質的特徴』を解明しなければ、世界において人間が占める地位と役割を解明できないので、世界で占める人間の地位と役割を解明したチュチェ思想の哲学的原理は、『世界の一般的特徴』を明らかにした原理と、『人間の本質的特徴』を解明した原理を自らの構成部分に包括しているといえる。それゆえこの哲学的原理を根本原理とするチュチェ思想の世界観も、『世界の一般的特徴』と『人間の本質的特徴』、そして人間と世界の本質的関係である『世界において人間地位と役割』の三つの側面を全一的に包括している。このような点で世界は物質からなっており、たえず変化発展するというマルクス主義哲学の原理はチュチェ思想の哲学的原理にその一構成部分として包括され、世界の本質的特徴を解明するうえで重要な一側面を担当しているといえる」
「チュチェ思想の哲学的原理は、『世界の一般的特徴』と、『人間の本質的特徴』およびこの両者間の本質的関係を包括することによって、現実世界の本質的特徴を全面的に解明した哲学的原理となる。それゆえ、チュチェ思想の哲学的原理は、従来の哲学的原理にくらべて世界の本質的特徴をいっそう深く解明したものである」
―朴庸坤 (1981)「 チュチェ思想の世界観」 未来社
マルクスが解明した「世界の一般的特徴」に新しく解明された「人間の本質的特徴」をリンクさせる、つまり「世界における人間地位と役割」を明らかにさせると、人間は世界において最も自主的かつ創造的な存在なので、人間は世界において主導的な主人の地位を占める。また人間は世界において最も創造的な存在であるので、世界を変化発展させるうえで決定的な役割を果たす。
これが「世界における人間地位と役割」であり、「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」というチュチェ思想の哲学的原理となる。
マルクス哲学の原理・弁証法的唯物論である「世界の一般的特徴」はチュチェ思想の哲学的原理の一構成部分とし、対となる構成部分「人間の本質的特徴」、そしてその二つの関係を明らかにした「世界における人間地位と役割」。チュチェ思想の哲学的原理は、この三つの側面を包括することによって、現実世界の本質的特徴を全面的に解明した哲学的原理となる。
「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」
これがチュチェ思想の哲学的原理である。
テーゼ
チュチェ思想のテーゼ(命題)は
- 革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推し進める力も人民大衆にある
- 自己の運命の主人は自分自身であり、自分の運命を切り開くのも自分自身である
である。
このテーゼが定義された背景をみていこう。
チュチェ思想の体系化・発展に多大な貢献をし、金日成主席の理論書記・主体思想研究所所長・最高人民会議議長など様々な役職を歴任し、金正日との対立から1997年南朝鮮へ亡命した黄長燁(ファン・ジャンヨプ)氏。チュチェ思想確立の初期から金一族・朝鮮労働党・チュチェ思想体系化に関与していたインテリで、チュチェ思想発展史における最も重要な人物である。
氏の著作から引用する。
「一九七〇年十月初旬、わたしは思想改造のために努力する過程で得た成果と教訓について報告したいと理由をつけ、金日成との面談を申請した。金日成は十月二十日の朝に執務室でわたしに会ってくれた。その日は日曜日だった。わたしは金日成に、三年間自分の思想を正すために努力したこと、マルクス主義の誤りに気づき、金日成のチュチェ思想の本質を哲学的に確固として把握したと言った」
「わたしは金日成が階級闘争とプロレタリア独裁思想を支持していることを知っていたため、その問題については言及しなかった。その代わり、マルクス主義が客観的法則のみ強調しすぎて、主体である人間の役割をしかるべく評価できずにいるという事実を指摘し、チュチェ思想を哲学化したいとのべた」
「金日成は非常に満足してこう言った。『これからは総長(筆者注:金日成総合大学総長)は名前だけにしておいて、保養所に行ってチュチェ哲学を研究する作業をしなさい。それよりもわたしと一緒にいまから大学に行ってみよう』わたしは金日成とともに大学二号校舎をまわりながら、大学教育発展について話をした」
(中略)
「わたしはそれまで、人間中心の哲学的原理に基づいてチュチェ思想を理論的に体系化する作業をすすめていた。『人間は自主性と創造的をもった社会的存在』だとか『社会発展の基本法則』、『人生観』などいくつもの論文や、唯物論、弁証法を人間中心の哲学的原理に基づいて改作した文章も書いた」
「わたしは研究成果を金日成に報告した。ところが返事がないため、随行している技術書記に聞いてみると、かばんに入れて持ち歩いてはいるが、まだ読んでいないとのことだった。正常な哲学教育を受けることがなかった金日成には、わたしの新しい哲学原理に基づいた文章を理解するのはたいへんな労力を要するだろうと考えた」
「それでわたしは金日成に哲学的原理にかんする認識を助けるための弁証法や唯物論をもうすこしやさしく解説すると提案した。すると金日成は哲学を理解するには時間がかかるから、まず政治的部分を解明することに力を傾けてくれと言うのであった。それからは、わたしはふたたびチュチェ哲学にかかりきりになった」
「一九七二年の夏、金日成が一緒に休暇を取ろうと言った。わたしは文書整理書記たちとともに金日成に随行し、夏休みに出かけた。夏休みが終わると九月だった。平壌に帰ってきた直後のある日、日本の毎日新聞社から金日成にインタビューの要請があった。テーマは『チュチェ思想に基づいた朝鮮労働党の対内外政策』であった。金日成はまず文書で回答し、かれらと会って話をすると言った。文書回答はわたしが作成した」
「一九七二年九月十七日、新しい哲学原理に基づいたわたしの論文が、『わが党のチュチェ思想と共和国政府の対内外政策のいくつかの問題点について』という題目で活字化された。わたしはこの論文で、初めてチュチェ思想にたいする定義を下し、人間中心の社会歴史原理に基づいた朝鮮労働党の対内外政策を明らかにしたのである」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
1970年10月、黄長燁は金日成主席に、マルクス主義が客観的法則のみ強調しすぎて、主体である人間の役割をしかるべく評価できずにいるという事実を指摘し、チュチェ思想を哲学化(体系化)したいと申し出て、金日成主席は非常に満足気に了承する。そして黄長燁は保養所でチュチェ思想の体系化に取り組み1972年9月に初めてそれまで曖昧であった「チュチェ思想とは何か」という定義を行った。
「チュチェ思想とは私が創造したものではなく、金日成の考えだ。要約すれば、ソ連の隷属から解放し、独立するという考えだ。つまりソ連に対する事大主義とソ連に依拠する教条主義を捨てるということだ。マルクス主義を北朝鮮の現実に合わせるのがチュチェ思想だ。そういう考えに衣を付けたのが私で、新しい思想ではない」
「『チュチェ思想とは何か』という定義は私が行った。1972年9月17日の文献だ。それまでチュチェ思想とは何かという定義はなかった。72年、毎日新聞のインタビューに『チュチェ思想と朝鮮労働党の対内外政策』という題目で出した。ここで初めて私は、『チュチェ思想とは、革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推し進める力も人民大衆にある。自己の運命の主人は自分自身であり、自分の運命を切り開くのも自分自身である』とした」
「金正日(キムジョンイル)も大いに賛成したが、だんだん彼は『革命と建設の主人は人民大衆』から『主人は無産階級』と直し、次には『革命の主人は首領』という風に直した。そして首領絶対主義を唱えるようになった」
―久保田るり子 (2008)「金正日を告発する 黄長燁の語る朝鮮半島の実相」 産経新聞出版
1972年9月17日、毎日新聞による金日成主席へのインタビューに先立ち「わが党のチュチェ思想と共和国政府の対内外政策のいくつかの問題点について」という題目の文書で回答が出され、9月19日付で毎日新聞に掲載された。黄長燁が作成し金日成主席の名義で出されたこの論文で、初めてチュチェ思想の定義が明文化された。
チュチェ思想とは
- 革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推し進める力も人民大衆にある
- 自己の運命の主人は自分自身であり、自分の運命を切り開くのも自分自身である
これがチュチェ思想の「テーゼ」である。
チュチェ確立の原則
「チュチェ思想」という言葉が初めて公式に使われた、1965年4月14日に金日成主席がインドネシアのアリ・アハラム社会科学院で行った演説「朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命」で発表されたチュチェ確立の原則。
- 思想における主体
- 政治における自主
- 経済における自立
- 国防における自衛
黄長燁氏は著書でチュチェ思想が確立していくこの時期を回想している。
「このとき(筆者注:1961-62年頃)の金日成のチュチェ思想をひと言で要約するなら、大国を無条件に崇拝し、自国を見下す事大主義と、大国のものを機械的に模倣する教条主義に反対しながら、具体的な実情に合わせてマルクス・レーニン主義を創造的に適用するべく要求することだと言える」
「金日成は、主体は革命なので、マルクス・レーニン主義は北朝鮮革命の要求に合うように創造的に適用しなければならないと言った。しかしわたしは、革命は運動であるため、主体という用語は合わないと考えた。そして革命という言葉の代わりに人民と改めることにした」
「また事大主義に反対することは、マルクス主義を創造的に適用するというよりも、大国からの干渉と支配に反対し、主体である朝鮮人民の民族的利益を守ることだと理解するほうが正しいと考えた。そしてわたしはマルクス主義を具体的実情に合うように適用する創造的立場とともに、事大主義に反対し、自主的立場を守ることをチュチェ思想の基本要求の一つとして付け加えることにした」
「その後、金日成は自主的立場と創造的立場を基本政策として採択し、思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛、と基本路線を定式化した。これがチュチェ思想の基本内容であり、この基本内容は全的に金日成が当時の北朝鮮の実情に合わせて打ちだしたものであった」
「金日成は体系的に高等教育を受けなかったため、学術用語を正確に書くことを知らなかったが、理論は重視した。そして実践に必要な理論を自分なりに構成できる能力もあった。たとえて言うならばこういった感じである」
「―党活動は、人との活動である」
「―教育活動をすべての活動に優先させなくてはならない」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
「また事大主義に反対することは、マルクス主義を創造的に適用するというよりも、大国からの干渉と支配に反対し、主体である朝鮮人民の民族的利益を守ることだと理解するほうが正しいと考えた」。筆者個人としては、この一文こそ「チュチェ思想とは何か」というものの本質だと理解している。
「思想における主体」とは、このような考え方であり、民族の抑圧・停滞を助長し、発展を阻害する以下のような思想と闘争することだとも考える。
- 事大主義
- 教条主義
- 形式主義
- 虚無主義
- 日和見主義
- 封建主義
- 家族主義
- 儒教思想
- 宗教
など
これは個人レベルでも取り組むべきことだといえるだろう。
また筆者は朝鮮の核武装を支持する立場だが、それも「国防における自衛」の条件をみたすためには地政学的に不利であるため通常兵力での自衛力は不十分であり、核武装は正当で主体的な自衛の手段であると考えるからだ。外国軍駐留などは論外である。
- 思想における主体
- 政治における自主
- 経済における自立
- 国防における自衛
これが「チュチェ確立の原則」である。
チュチェ思想の学派
先にあげた「世界観」「テーゼ」「原則」を土台として、チュチェ思想の学派を分析していく。
金日成学派
金日成主席が創始し、黄長燁が体系化した元々のチュチェ思想、当ブログでは「金日成学派」と呼ぶ。金日成・黄長燁及び主体科学院派(朴庸坤など)が金日成学派。実権掌握した金正日によるチュチェ思想の独自解釈が出てくる1982年頃までを金日成学派の時期とする。
思想面では、「土台」に加え「集団主義」「社会主義・共産主義社会を建設する」という要素がある。チュチェ思想の原理主義といえるだろう。
黄長燁率いる主体科学院派に属していた朴庸坤氏は著書で当時を回想している。
「一九七二年九月、金日成は日本の『毎日新聞』記者の質問にたいする回答で、概念規定がいままで曖昧であったチュチェ思想を『革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を押しすすめる力もまた人民大衆にあるという思想』であり、『自己の運命の主人は自分自身であり、自己の運命を切り開く力も自分自身にあるという思想』であるとした。さらに一一月、オーストラリア記者の質問にたいする回答で、『チュチェ思想は人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという哲学的原理に基づいている』とした」
「北朝鮮の社会科学者は、チュチェ思想の哲学的基礎を理論化、体系化する作業に総動員された。この研究には、黄長燁を長とする主体科学院派(金日成総合大学派)」と楊亨燮(ヤン・ヒョンソプ)を学長とする社会科学院派が参与して、互いに研究成果を熾烈に競い合った」
(中略)
「私は、一九八一年春、総合大学の兼任研究員時代の論文『チュチェ思想の世界観』(未来社刊)を出版した。この活字化された論文が、北朝鮮の哲学学会の博士学位審査の俎上(そじょう)にのせられた。私の博士論文審査を契機にして、チュチェ思想研究に伏在していたふたつの流派の見解の違いが顕在化してきた。予想もしなかった出来事だった」
(中略)
「私の博士論文審査の過程で、チュチェ思想の解釈をめぐるふたつの流派、黄長燁の主体科学院派と楊亨燮の社会科学院派とのあいだで陰湿な暗闘が展開されていたのである。ふたつの流派の特徴を簡潔に書いてみよう」
「主体科学院派の総師は黄長燁である。黄長燁(一九二三~二〇一〇)は平安南道生まれ。東京の中央大学(中退[筆者注:徴用工として江原道三陟(サムチョク)セメント工場へ強制送還])、金日成総合大学を経て、一九四九年にモスクワ大学でマルクス・レーニン主義を学んだ。一九五八年から六五年まで金日成の側近くで理論書記として仕えた。一九六五年から金日成総合大学総長、一九八〇年からチュチェ思想、科学教育、国際関係担当の党書記を歴任した。六〇年代以降、金日成の『チュチェ確立』の理念に、自身の人間中心の哲学の理念を加えて、『チュチェ思想』の理論を集大成した。それゆえ『チュチェ思想の生みの親』と評された。七三歳で韓国に亡命する以前の黄長燁は、名実ともに党中枢幹部、金日成側近として権勢をほこった」
「社会科学院派を率いる楊亨燮(一九二五~)は、咸鏡南道咸興市生まれ。金日成総合大学卒業後、モスクワ大学に留学。一九六一年より高級党学校校長。一九八〇年より朝鮮社会科学院の院長を務めた。二〇一〇年に党中央委政治局員に選出された。理論の切れ者と評された」
「黄長燁の影響下にあった主体科学院派は、主として金日成総合大学の哲学、経済、歴史の研究スタッフが理論陣を張っていたが、その主張はどことなく人文主義的(ヒューマニズム)で、学究的(アカデミック)な色彩が漂っていた。チュチェ思想の解釈では、一九九六年頃までは党中央委『資料室(主体思想研究所)』、主体科学院の解釈が主流を占めていた。国際セミナーの各国代表の討論、朝鮮総連の活動家の講習には、もっぱら主体科学院系列の優秀な講師が出演していた」
「私のチュチェ思想の解説を聞いて、『雲間の月みたいに見えたり見えなかったり』と評した総連議長の韓徳銖(ハン・ドクス)が、この優秀な『まさかり』講師、金永春の講義を聴いて私に言った。『チュチェ哲学がよくわかった、雲がとれて月が見えたよ』と。韓国の学生運動で一時急伸した『主思(チュサ)派』も、この派の主張と解釈に依拠していた」
「一方、楊亨燮が率いる社会科学院派は、主として高級党学校、社会科学院のスタッフが理論陣を張り、その影響下にある雑誌『哲学研究』などの執筆で活動していた。その主張は北朝鮮国内向けで、政治的(ポリッティク)で、実践的(アクティブ)な色彩を帯びていた。この派の強みは北朝鮮の新聞、報道、出版界をほぼ掌握していることだった」
「チュチェ思想の解釈をめぐり、両派には彼らだけが知る対立と目に見えない論争、誹謗中傷を伴う陰湿な闘争があった」
(中略)
「それは、チュチェ思想の解釈をめぐる異端狩りの体をなしていた。正統か異端かの判断は、チュチェ思想の解釈権をもつ総書記の金正日だけが決裁できたからである。内実は、イデオロギー論争の形をとった党内の権力闘争でもあった」
「にわかにチュチェ思想研究の道に入った私は、好むと好まざるに関わらず、当初から黄長燁が率いる総合大学グループ、主体科学院派に組み込まれていた。そして海外研究者という『治外法権』的な立場にある私を利用して、主体科学院派のチュチェ哲学に関する独自な見解、社会科学院派の見解と対立する主張を代弁させていた」
「その最初の著作が未来社から出た『チュチェ思想の世界観』であった。知らなかったとはいえ、黄長燁派のスポークスマン的役割、モルモット的役割をしていた私が、社会科学院派の攻撃のターゲットになるのは当然であった。しかし、私にとって主体科学院派の理論探求の学究的態度と真摯で謙虚な研究姿勢は好みにあい、優れた研究者との交流は私の研究意欲をかきたて、心地よい刺激になっていた。そして研究内容も方法もほとんど軌を一にしていった」
―朴庸坤 (2017)「ある在日朝鮮社会科学者の散策『博愛の世界観を求めて』」現代企画室
「テーゼ」の章で述べた通り、1970年10月、黄長燁氏は金日成主席にチュチェ思想を体系化したいと申し出て了承された。そして保養所で体系化に取り組み1972年9月に初めて、それまで曖昧であった「チュチェ思想とは何か」という定義を行った。
そして引用文の「さらに一一月、オーストラリア記者の質問にたいする回答で、『チュチェ思想は人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという哲学的原理に基づいている』とした」にある、「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」というチュチェ思想の哲学的原理も、筆者の手元に資料がないが、時期からして黄長燁氏が定義したとみて良いだろう。
その後、朝鮮中の社会科学者が総動員され、黄長燁の主体科学院派と楊亨燮の社会科学院派に分かれチュチェ思想研究が進められた。
金日成主席はチュチェ思想の創始者ではあるが、高等教育を受けておらず知識人ではなかった。そのためチュチェ思想の体系化にはほとんど関わっておらず、金日成学派=黄長燁学派といっても間違いではないだろう。
当ブログは、金正日が「金日成主席誕生70周年記念主体思想全国セミナー」に送った論文「チュチェ思想について」を発表する1982年3月31日までを金日成学派の時期とし、金日成・黄長燁及び主体科学院・朴庸坤の見解・著作を参考文献とする。
内容としては、「世界観」「テーゼ」「原則」を土台として、さらに「集団主義」「社会主義・共産主義社会を建設する」という要素が入ったものである。
金日成学派は元々のチュチェ思想であり、原理主義といえるだろう。
金正日学派
1974年2月の党全員会議で、金英柱(キム・ヨンジュ:金日成の弟で当時朝鮮のナンバー2)との政争に勝ち金日成の後継者に内定して実権を掌握した金正日。
1982年3月31日に発表した論文「チュチェ思想について」を皮切りに「イデオロギーの審判者」として徐々に、そして巧妙にチュチェ思想を個人崇拝思想へと変質させていく。
「チュチェ思想について」の内容で金日成学派との違いは
- 「人間の本質的特徴」に「意識性」という概念が追加された
- 社会的存在である人間の「社会的・政治的生命」という概念が追加された
- 革命における領袖の地位を強調
まずはじめに明示しておくが、黄長燁・朴庸坤など数々の人の著作で明らかにされた通り、金正日は民族の発展のために働いた愛国者ではなく、サイコパス的な利己主義者・民族反逆者である。
当時現役で活動されていた在日同胞の方々は正確な情報がなく祖国の様々なことに対しジャッジすることはできなかった。また祖国の発展のために莫大な額の寄付をして朝鮮の生産設備や核・ミサイル開発に多大な貢献をされた方々がいたことも知っている。それは素晴らしいことで、彼ら・彼女らは真の愛国者だと筆者は尊敬している。
筆者は金正日が行った核・ミサイル開発は、後世の民族・国家の利益となるとても素晴らしい事業だったと評価しており、また彼の理論も完全に間違っているわけではなく、(とても巧妙に)部分的には正しい見解も入っている。
しかし金正日の本質は、やはり利己主義者であり、父・チュチェ思想・党・人民、すべてを政争・自身に対する個人崇拝に利用して民族・国家を停滞させた民族反逆者である。
今のところ現実的ではないが、朝鮮労働党は自己批判し金正日時代を総括すべきで、それはこれからの国家の発展に必要なことである。
社会政治的生命体論
金正日思想を代表するのが1986年7月15日に発表された「社会政治的生命体論」である。長いが重要部分を引用する。
「人民大衆が革命の自主的な主体になるためには、党と領袖の指導のもとに一つの思想、一つの組織に結束されなければなりません。組織的、思想的に統一団結した人民大衆であってこそ、自己の運命を自主的に、創造的に切り開いていくことができます。革命の主体は領袖、党、大衆の統一体です」
「人民大衆は、党の指導のもと領袖を中心に組織的、思想的に結束することにより、不滅の自主的な生命力をもつ一つの社会的政治的生命体をなします。個々の人間の肉体的生命にはかぎりがありますが、自主的な社会的政治的生命体に結束した人民大衆の生命は不滅です」
「金日成同志は、史上はじめて、個人の肉体的生命と区別される社会的政治的生命があることを明らかにしました。不滅の社会的政治的生命は、領袖、党、大衆の統一体である社会的政治的集団を離れては考えられません。個々の人間は、このような社会的政治的集団の一構成員となるときにのみ、不滅の社会的政治的生命をもつことができます」
「社会的政治的生命体は多くの人でなりたっているため、そこには社会的集団の生命活動を統一的に指揮する中心がなければなりません。個々人の生命の中心が頭脳であるのと同じように、社会的政治的集団の生命の中心はこの集団の最高頭脳である領袖です。領袖を社会的政治的生命体の最高頭脳というのは、領袖がまさにこの生命体の生命活動を統一的に指揮する中心であるからです。領袖は、人民大衆の自主的な要求と利害関係を分析、総合し、一つに統一させる中心であると同時に、その実現をめざす人民大衆の創造的活動を統一的に指揮する中心です」
「党は領袖を中心に組織的、思想的に強固に結合した人民大衆の中核部隊として、自主的な社会的政治的生命体の中枢をなしています。個々人は党組織をつうじて社会的政治的生命体の中心である領袖と組織的、思想的に結合し、党と運命をともにするとき、不滅の社会的政治的生命をもつようになります。人びとは、党組織と党の指導する社会・政治組織の一員として組織・思想生活に積極的に参加することによってのみ、社会的政治的生命体の中心である領袖との血縁的な結びつきを強固にし、自己の社会的政治的生命を輝かせていくことができます」
「領袖、党、大衆は一つの生命に結合して運命をともにする社会的政治的生命体であるため、そのあいだには助けあい、愛しあう革命的信義と同志愛の関係が生まれます。革命的信義と同志愛は、個々の人間を一つの社会的政治的生命体に結合させる作用をします」
「これまで、自由と平等の貴さについては多くの人が説いてきました。チュチェ思想も自由と平等が貴いものであることを認めます。それは、すべての人が世界の主人、自己の運命の主人として、誰にも従属することを望まない自主的な存在であるからです。しかし、革命的信義と同志愛の原理は、自由と平等の原理と同じ次元の原理ではありません。革命的信義と同志愛の関係も、自由と平等の関係を前提とすべきではありますが、自由と平等の関係があるからといって、革命的信義と同志愛の関係がおのずと生まれるものではありません。品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、かれらが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません。自由と平等の関係を革命的信義と同志愛の関係と対立させるのも正しくありませんが、どちらかの一方をほかのものに溶解させようとするのも誤りです」
「一つの社会的集団を単位にしてみるとき、平等の原理が個人と個人との関係において従属と不平等に反対し、個人の自主性を擁護することに寄与するなら、革命的信義と同志愛は、人びとをして運命をともにする一つの社会的政治的生命体に結びつけ、社会的集団の自主性を擁護することに強力に作用します。平等の原理が個人の生命を最も貴いものとみなす個人主義的生命観にもとづくものであるなら、革命的信義と同志愛の原理は、個人の生命より社会的政治的集団の生命をこよなく貴いものとみなす集団主義的生命観にもとづいています」
「もちろん、社会的政治的生命体のなかにも、革命的信義と同志愛の原理だけでなく、平等の原理が作用します。ここで個人のあいだの平等は、かれらのあいだの革命的信義と同志愛に矛盾するものではありません。人間による人間の搾取と抑圧が根絶され、人びとの平等が保障される状況のもとでのみ、真の革命的信義と同志愛がなりたちます。革命的信義と同志愛は人間の自主性と創意性を抑制するものではなく、むしろそれをいっそうしっかりと保障します」
「もし、社会的集団の統一をはかるからといって人間の自主性と創意性をおさえるならば、集団内の真の統一ははかれず、逆に人間の自主性と創意性を保障するからといって集団の統一を破壊するならば、個人の生命の母体である社会的集団の生命が弱体化され、個人の自主性と創意性そのものを保障することができなくなります。社会的集団の統一は、人間の自主性と創意性を高く発揮させることに寄与できるようにはかられるべきであり、人間の自主性と創意性は、あくまでも集団の統一をはかる枠内で実現されるべきです。これは、平等の原理と同志愛の原理を統一的に具現することによってのみ、個人の自主性と創意性を高く発揮させる問題と、集団の統一を強化する問題がともに解決されるということを示しています。もちろん、これは容易なことではなく、おのずとなるものでもありません。それで私は、社会的集団のあるところには必ず指揮が必要であることを重ねて強調しているのです」
「領袖は社会的政治的集団の生命の中心であるのですから、革命的信義と同志愛も領袖を中心としたものとなるべきです。革命的信義と同志愛は、領袖と戦士の関係において最も崇高を高さで表現されます。運命をともにする社会的政治的生命体のなかでは個人のあいだにも革命的信義と同志愛が作用しますが、どの個別的な構成員も社会的政治的集団の生命の中心とはなりえないため、かれらのあいだの革命的信義と同志愛は絶対的なものとはなりえません。しかし、領袖は社会的政治的生命体の最高頭脳であり、集団の生命を代表しているため、領袖への忠実性と同志愛は絶対的で無条件的なものとなります」
「領袖、党、大衆が一つに結合されてはじめて、不滅の社会的政治的生命体をなすのですから、それを互いに分離させたり、対置させてはなりません。党と領袖の指導を離れた大衆が歴史の自主的な主体になりえないように、大衆から遊離した党と領袖も歴史を導く政治的指導者としての生命を有することはできません。大衆から遊離した領袖は領袖ではなく、一個人であり、大衆から遊離した党は党ではなく、一つの個別的な集団にすぎません。それゆえ私は、領袖、党、大衆を分離して考えてはならないと、常に強調してきました」
「我々は、革命と建設において領袖が決定的な役割を果たすということについても正しい理解をもつべきです。領袖は団結と指導の中心であり、人民大衆の運命を切り開くうえで決定的な役割を果たします。これは、頭脳が人間の活動において決定的な役割を果たすのと同じことです。しかし、領袖はあくまでも党の領袖、人民大衆の領袖なのですから、領袖の役割を党の役割、大衆の役割と分離して考えてはなりません。領袖の役割、党の役割、大衆の役割は常に一つに統一されています」
「これと同じく、領袖への忠実性と党への忠実性、人民への忠実性は一つに統一されています。党への忠実性、人民への忠実性なしに、領袖への忠実性のみをもつということはありえず、またそのような忠実性は真の忠実性とはいえません。領袖への忠実性を、党性、労働者階級性、人民性と別個の問題とみなしてはなりません。領袖は党と人民大衆の生命の中心であるため、党への忠実性と人民への忠実性は、領袖への忠実性に集中的に表現されなければなりません。そのため、領袖への忠実性を党性、労働者階級性、人民性の最高表現というのです」
「我々が革命的領袖観を確立し、領袖への忠実性を第一の生命とするのを、チュチェ型の共産主義的革命家の基本的品性とする理由はまさにここにあります」
「領袖への忠実性は、社会的政治的集団の生命が個人の生命の母体であるという集団主義的生命観に根ざしています。人間にとって最も貴いものは生命です。生命のなかでも肉体的生命より社会的政治的生命のほうが大切であり、個人の生命より社会的集団の生命のほうが大切です。社会的集団の生命があってこそ、個人の生命があるのです。個人がその生命の母体である領袖、党、大衆に忠誠をつくすのは、誰かの指図によってではなく、自分自身がもっている社会的政治的生命の根本要求から生まれでるものです。それは他人のためではなく、自分自身のためです。チュチェ思想は、肉体的生命の要求をみたすための生活は動物の生活と変わるところがなく、領袖、党、大衆から離れた孤立した生活は人間の社会的本性に反する価値のない生活とみなします。チュチェ型の共産主義的革命家は、党と領袖の指導のもとに革命的信義と同志愛でかたく団結し、人民大衆の自主性を実現するための共同偉業に身を賭してたたかうことに、真の生きがいと幸せを見いだすのです。それゆえ、革命的領袖観は革命的人生観の核心であるといえます」
「しかし最近、党生活にあらわれている欠点を分析してみると、いまなお活動家には革命の主体にたいする正しい理解が欠けており、特に領袖を社会的政治的生命体の中心とみる観点が確固たるものでないことを知ることができます。領袖を中心とする党と生死苦楽をともにしようとする革命的信念が確固としていないため、金日成同志の教えと党の方針にたいして絶対性、無条件性の原則を守っておらず、難関に直面すると敗北主義に陥って動揺し、要領主義的に立ちまわっています」
「我々は金日成同志の教えと党の方針を一種の命令や義務としてうけとめる前にまず、それが最も崇高な生の要求であることを深く自覚し、無上の喜び、光栄として受け入れ、母なる党と父なる金日成同志の大いなる愛情と信頼であることを胸に探くきざみ、それを貫くために自分のすべてをささげるべきです。このように思考し行動する人であってこそ、革命的領袖観に徹したチュチェ型の共産主義的革命家であるといえます」
―金正日 (1986/7/15)「チュチェ思想教育における若干の問題について」朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話
社会政治的生命体論を要約すると
- 革命の主体は人民大衆である
- しかし人民大衆が革命の主体になるためには、党と領袖の指導のもとに結束されなければならない
- よって革命の主体は領袖・党・人民大衆の統一体である
- 人民大衆は、党の指導のもと領袖を中心にに結束することにより、不滅の自主的な生命力をもつ一つの社会的政治的生命体をなす
- 個々の人間の肉体的生命にはかぎりがあるが、自主的な社会的政治的生命体に結束した人民大衆の生命は不滅である
- 個々の人間は、このような社会的政治的集団の一構成員となるときにのみ、不滅の社会的政治的生命をもつことができる
- 助けあい、愛しあう革命的信義と同志愛を社会的政治的生命体の根本原理とする
- 領袖は社会的政治的生命体の最高頭脳であり、集団の生命を代表しているため、領袖への忠実性と同志愛は絶対的で無条件的なものとなる
助けあい、愛しあう革命的信義と同志愛を根本原理とし、社会的政治的生命体の最高頭脳であり集団の生命を代表している、領袖への絶対的で無条件的な忠実性と同志愛をもつ集団主義社会。
つまり「社会政治的生命体論」は、19世紀のヨーロッパで唱えられていた、善意に依存するユートピア思想・空想的社会主義に領袖絶対主義をくっつけたようなものである。またこの談話の中で、革命の主体が「人民大衆」から、論理ではなく詭弁により「統一体」そして「領袖」へと転換している。正しい見解を織り交ぜながら非常に巧妙に文章を構成している。
そして「自主」「集団主義」「社会主義・共産主義社会を建設する」など一見チュチェ思想(金日成学派)と同じようにみえるが内容は大きく異なる。
金正日の思想を、思想として分析するとこれは非科学的な宗教である。そして実体は思想を騙った利己主義者による個人崇拝ための道具である。
金正日は哲学者だったのか
では哲学者としての金正日はどうだったのか。黄長燁氏の著書から引用する。
「当時(筆者注:1982年)のわたしは科学教育担当秘書として、社会科学院にたいする指導権をもっていた。楊亨燮は最高人民会議議長と社会科学院院長を兼任していた。一方でわたしの評判が高まるにつれて、宣伝部と文書整理室でもわたしと主体思想研究所を妬む空気が強くなってきた。すると金正日も嫉妬心をもってわたしを警戒しはじめ、わたしのチュチェ思想宣伝活動を制限する措置を取りはじめた」
「重ねて主張するが、わたしは、マルクスの唯物弁証法はもっとも単純な物質的存在を基準として展開した理論であるため、運動の主体である人間が積極的役割を果たす成熟した人間社会には合わず、したがって理論を人間を中心に改作しなければならないと考えた。わたしは人間中心に改作した唯物論と弁証法を『チュチェの唯物論』『チュチェの弁証法』と呼んだ」
「マルクス主義を教条主義的に信奉する者たちにはマルクスの唯物論と弁証法は絶対的真理であるから、修正できないし、『資本論』における価値法則について別の解釈をしようとすることはとんでもない修正主義論であると主張した」
「わたしの知る金正日は、哲学常識に欠け、また哲学的に思考することを好まない感覚的な性格であるためにこうした問題には興味がなかった。にもかかわらず、わたしがチュチェ哲学にたいして高い権威をもつことを好まなかった」
「一九七二年の夏だったと記憶する。新憲法について討論しているときに当時の科学教育部長が立ち上がって発言した」
「『いま、社会科学院でチュチェ思想を黄長燁が創始したとの話が出回っていますが、それについて対策を考えねばなりません』」
「すると金日成は、」
「『チュチェ思想はわたしが打ちだしたものであって、黄長燁はわたしの書記だということをみな知っているはずなのに、それがなぜ問題になるのか?放っておけ』」
「と、科学教育部長の言葉を一言のもとにはねつけてしまった」
「わたしがその場にいたからそう言ったのかもしれないが、たとえそうだとしても金日成は大物だと思った。しかし金正日はわたしへの評価を差し控えながらも、裏ではわたしの理論的権威が高まることにきわめて神経質であった。このように金正日は金日成よりも包容力に欠けていた」
「わたしは自分の理論的権威については、爪の先ほども考えたことがなかった。また理論問題にかんして誰とも競争心をもったことがなかった。わたしは自分が発見した哲学的真理が占める歴史的地位について確信をもっていたが、それをわたし個人の功績だとは考えていなかった。さらに自分を非凡な才能をもった存在などとは、一度も考えたことがなかった」
「当時のわたしは先輩たちから多くを学び、また同僚たちからも多くのことを学んだと思っていた。またわたしに勉強をさせてくれて研究できるように党が配慮してくれなかったなら、自分はそのような真理を発見できなかっただろうとつねに肝に銘じていた。したがってわたしが金日成や金正日の名前で書いたものでさえ自分のものとは考えず、当然かれらのものであると認めていた」
「もしかれらが、わたしの主張する哲学のすべてをそのまま受け入れたのならいざ知らず、そのうちのきわめて小さな一部分だけを自分たちの利益に合うように受け入れたにすぎないのだから、わたしの理論とかれらの立場を一緒にする必要はない」
「わたしがチュチェの哲学的真理を発見できなかったとしても社会は発展するものなのだから、後世の誰かがこの真理を発見することになるだろうというのがわたしの考えである。したがってわたしはどのような理論でも、それを最初に提唱した人の名前と結び付けることは無意味だと考えている」
「一九八〇年だったか一九八一年だったか正確ではないが、ある日、金正日の指示だと言って宣伝部副部長が訪ねてきた。かれはわたしに金正日の名前で発行した小冊子を渡しながら、金正日の労作発表の集まりで幹部たちに読んでやるようにと言った。この集まりは、金正日の著書の刊行を祝い、金正日の著書を一冊ずつもらうための幹部たちの集まりであった」
「金正日の冊子を読んでみると、書いた日付が一九七四年四月になっていた。内容は『チュチェの唯物論』、『チュチェの弁証法』という用語を使用してはならないということであった。わたしはこの問題について論争するつもりはなかったが、妙な気分だった。まるでチュチェ哲学を前から知っていたとでも言うように、金正日が実質的に権力を握った一九七四年にさかのぼるように捏造したのである」
「このようなことはよくあることではあった。金日成や金正日のいわゆる労作原稿を書きあげたあと、発表の日付をいつにするか相談し、適当な日付を書いてきたのである。しかしチュチェ哲学のように、あまりにも明らかなものの日付がつけかえられているのを見ると、正直言って気分はよくなかった」
―黄長燁 (2001)「金正日への宣戦布告」文藝春秋
金正日が発表した日付を1974年4月に捏造した談話は「チュチェ哲学の理解で提起される若干の問題について」である。日本語版の冊子が、たまたま筆者の手元にあったのだが、発行は朝鮮総連中央常任委員会で発行日は1984年3月となっている。この冊子は、「金日成主義の独創性を正しく認識するために」(1976/10/2)という談話との二本立てだがこちらも日付が捏造されている可能性がある。
指導者の演説文や論文をゴーストライターが書くことは別におかしいことではなく、どこの国でも普通に行われている。しかし金正日は実体がないにもかかわらず思想家・哲学者としてアピールし、権威を高めようと工作していたのである。
これが、金正日が17歳の頃から、彼のことを知っている黄長燁が暴露する金正日の実体である。
黄長燁による金正日への挑戦
1996年2月、黄長燁はモスクワで金正日のチュチェ思想の改変を批判する。そして1年後の1997年2月、これ以上金正日を助けることは民族への反逆だという考えに至り南朝鮮へ亡命する。
朴庸坤氏の著書から引用する。
「一九九六年二月、モスクワで『自主、平和、友好に関するチュチェ思想国際セミナー』が、三〇余か国から三〇〇名ほどが参加して開かれた」
「国際セミナーはスケジュールどおり進められ、無事に終わった。しかし舞台裏で事件が起きていた。黄長燁はモスクワ大学の哲学教員二〇名ほどを大使館の別室に集めて、達者なロシア語で心にある思いを訥々(とつとつ)と話した」
「それはチュチェ思想が世に出た経緯、チュチェ思想の深奥な内容、その哲学的意義などであったが、『チュチェ思想はわれわれの仲間が作ったものであり、首領の神格化、絶対化とは絶対に無縁である』ときっぱり断言した。それはイデオロギーの審判者、金正日の逆鱗にふれるものであり、黄長燁による金正日への挑戦でもあった」
「談話の全容は同行した監視員の手で録音されていた。録音は平壌ですぐ朝鮮語に翻訳され、関係者に配布された。こともあろうに、主体思想の海外宣伝の責任者が一〇大原則に反する言説を弄(ろう)するとはなにごとだ、怪しからん、と党内は大騒ぎになった。党機関紙『労働新聞』はモスクワ国際セミナーの論評で、黄長燁を『陰謀家、背信者、野心家』と名指しで批判した。金正日は即刻、黄長燁を呼びつけ、自己批判書を差し出すよう厳しく命じた」
「一九九六年七月、金正日が党中央委理論雑誌『勤労者』に寄せた談話、『主体思想は独創的な革命哲学である』が発表された。前文は、『最近我が国の一部の社会科学者が主体哲学の解説にあたって、我が党の思想に反する誤った見解を主張しており、そのような見解が対外的にも流布しているという問題が提起された』とあった」
「『一部の社会科学者』とは、黄長燁とそれに連なる主体科学院、金日成総合大学哲学部の研究者(私、朴庸坤も入る)を指していると、誰の目にもはっきりわかった。さらに、その思想は『わが党の思想に反する思想』、反党思想であると厳しく断罪していた」
「この談話で看過してはならないのは、チュチェ哲学を『わが党の革命哲学であり、政治哲学』とはっきり性格づけたことである」
「この談話以降、主体思想研究所は空洞化、形骸化し、哲学的原理の基礎や基本原理に関する諸問題の学究的研究は衰退しはじめた。その後に登場した『先軍思想』に主役の場をゆずり、チュチェ思想は徐々にその姿を消していった」
「金正日もチュチェ思想に関する関心が薄れたのか、チュチェ思想に関する談話、労作を出さなくなった」
―朴庸坤 (2017) 「ある在日朝鮮社会科学者の散策『博愛の世界観』を求めて」 現代企画室
金正日は黄長燁の挑戦によりその後、それまで解釈権にこだわっていたチュチェ思想を手放し、党の指導思想は「先軍思想」になった。そして現在、その流れを汲む「金日成・金正日主義」が現体制の指導思想となった。金日成・金正日主義も金正日学派とみていいだろう。
時期としては1982年~ということになる。
これを金正日学派とする。
チュチェブログ学派
改めてチュチェ思想を定義し分類すると、「世界観」「テーゼ」「原則」という土台に加え、原理主義(金日成学派)的には「集団主義」と「共産主義社会を建設する」という要素は外せないということになる。
当ブログは、金日成学派として研究・発信を続けていたが、これからの時代、朝鮮は共産主義社会を目指すのではなく改革開放して市場経済化すべきだと考えているので、これでは金日成学派(原理主義)を標榜することはできない。
そういうわけで今後は新たに「チュチェブログ学派」として研究・発信をしていくこととする。
チュチェブログ学派と金日成学派との違いは、当ブログはチュチェ思想に基づいて、朝鮮・朝鮮民族の今と未来をより良くしようと考えて発信しているのだが、「集団主義」についてはまだ明確な見解は出せない。しかし「共産主義社会を建設する」に関しては、これは実現可能性・もし実現したとしても人民・社会の実際の豊かさや幸福度を考えるとこれはとても現実的とは思えない。時代の制約を受けるもの、過去の夢の跡という認識である。
「あらゆる革命闘争は、一口に言って、すべて階級的、または民族的従属からの解放のためのたたかいであり、人民大衆が、自らの自主性を守るためのたたかいであるとみなすことができます」
「われわれが社会主義・共産主義社会を建設するためにたたかうのも、結局は、人々があらゆる従属から抜けだし、自然と社会の主人として自主的で創造的な生活を享受するためです」
―金日成 (1978)「チュチェ思想について」雄山閣
「朝鮮革命」については後日記事にまとめるので今回は触れない。
一部分のみを切り取って十を語るのはスマートなやり方ではないと思うが、引用文に
「われわれが社会主義・共産主義社会を建設するためにたたかうのも、結局は、人々があらゆる従属から抜けだし、自然と社会の主人として自主的で創造的な生活を享受するためです」
とあるように、最も重要なことは、「人々があらゆる従属から抜けだし、自然と社会の主人として自主的で創造的な生活を享受すること」という目的であって、「共産主義社会」という手段ではない。
「共産主義社会」という手段が目的に対する最適解であるのならば、その手段・イデオロギーは正しい。1980年代頃までは、金日成学派を含めた共産主義者の人々はそれを信じて闘ってきた。その闘争は無駄ではなかったし人類の発展において多大な貢献をしたといえるだろう。
しかしたえず変化・発展している現在・これからの世界を考えた時、共産主義社会という手段は朝鮮にとっての最適解だろうか。
繰り返しになるが答えは否である。
1990年代の3年飢饉「苦難の行軍」により朝鮮では配給制が停滞しチャンマダン(ヤミ市場)が自然発生し、2002年金正日が「総合市場」として公認した。そして現在人民経済は市場経済でまわっている。そのような現実も踏まえ、朝鮮・人民が豊かになる最適解は、同じ社会主義国の中国やベトナムが成功したように改革開放することだろう。
改革開放するといっても、完全に市場を開放すると、資本の力で外部勢力に国を乗っ取られてしまうので、朝鮮労働党の独裁で外資から国を守る措置は必要だ。また、格差はなくせないものだが、政府は極端ではない範囲での富の再分配を行うべきだろう。そういう意味でこれは完全な自由主義ではない。
現在の朝鮮は、分断された準戦時体制という特殊な状態なので、首領独裁のもとに強権的に国をまとめ上げるというやり方もわからなくはない。しかし当ブログは朝鮮労働党の独裁は支持するが将来的には個人崇拝・世襲をやめ、真の人民共和国を実現するべきであると考える。
チュチェブログ学派
哲学
- 「世界観」
- 「テーゼ」
- 「チュチェ確立の原則」
を土台とし
これを目的とする。
イデオロギー
- 朝鮮労働党の独裁体制を支持
- 集団指導体制への移行(個人崇拝・世襲に反対)
- 核武装を支持(国防における自衛の原則から)
- 改革開放(条件付きの市場経済化)
- 出身成分の廃止
- 連邦制による祖国統一を支持
など
当学派は客観的事実・科学を基に事物を考える。しかし人間中心の哲学であるチュチェ思想は完全な唯物論とは言えず精神論的な要素もあるだろう。だが当学派は感情論や非科学的な考え方には与しない。例えば金正日の思想だ。当ブログは機会あるごとに何度も繰り返し金正日・金正日思想を批判してきたし今後もするだろう。なぜならいくつも述べてきた通り金正日思想は明らかに国家・民族の発展を阻害し抑圧する民族反逆者の思想だからだ。
そしてそれが明らかになった今でも金正日思想を支持する者は民族反逆者である。金正日時代を生きた人にとっては心や感情のバランスから簡単に転向はできないかもしれない。しかし客観的事実や科学から出発して考えたらそのような答えになるはずだ。
チュチェ思想は金日成主席が創始し、黄長燁が体系化した世界と人間の普遍的な根本問題を解明した素晴らしい哲学で、朝鮮人によって朝鮮人のためにつくられた、私たちを発展させる思想である。
金正日思想と金正日のやったことはチュチェ思想・民族に対する冒涜であり、それを支持することは民族の恥である。
筆者は、チュチェ思想や朝鮮民族はその程度のものではないという想いがあるので、時代に取り残されるのではなく、これからも哲学を研究し少しでも民族の発展に寄与できればと思う。